2016年 05月 26日
文芸評論アニメ評論は大嫌いだが,結局は自分も同じことをしている |
大学時代の英語の授業にて.授業前は,教材はシェークスピアを使うと聞かされていた.「シェークスピアの原文でも読むんかいな?」と思っていたら実はそうではなく,授業内容はシェークスピア作品の英文評論の読解であった.
教材が原文ではなく評論だったのはまあよい.釈然としなかったのは,その評論の内容である.「シェークスピアの作品のこの表現からは,作者の×××との意図や思想が読み取れるのである」といった断定調の評論文であったが,自分は「シェークスピアが自身でそのような解説記事を残しているのか?」「お前はシェークスピア本人からそう聞いたんかい!!」とイチャモンをつけたくなった.この感想は今も全く変わっていない.
文芸評論やアニメ評論に対しても,同じような考えを抱いている.この手の評論は,結局は自分が「大大大」嫌いな哲学の話になる.いつぞや思想雑誌「ユリイカ」でアニメ評論を読んだことがあるが,わけのわからん文言を駆使した,これまたわけのわからん評論の繰り返しだったことにうんざりしたことがある.一般ファンの視点を全く逸脱したアニメ評論に何の意味があるのかいなと思う.
そもそも哲学者や社会思想家は,わざと難解な単語を駆使して「どうだ,俺はお前ら愚民とは違うのだ」と言いたいとしか思えん文章を書く.読んでいていらつく.だから,自分は哲学や社会思想が大嫌いである.
・・・・・・・.とか言いつつも,実は分類屋たる自分も同じことをしている.世の大半の人からすれば,どうでもよい数ミリの虫に対して,「亜種」「種」「属」「亜属」のような,これまたわけのわからん階級を駆使して,自分で勝手に分類しているわけである.
結局は自分も社会思想家も同じ穴の狢(むじな)じゃ.
by nanamisuzuka
| 2016-05-26 21:13
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